こんにちは~おもちまるです!
ついにnoteからコピペしてくる記事がなくなってしまったので、この最終話は今、2023/7/4 の夜に二年前のことを頑張って思い出しながら書いています。
もうだいぶ忘れているのでスカスカかもしれないです。
やっぱりすぐ書くことって忘れないためにも大事ですね…早いうちに高2の学年の時の1年間もまとめてしまわなくては
それでは、スタート!
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高1の10月、学校への登校が再開したところ、やはり再び体調が悪くなりました
今まではお昼ご飯のあと、5・6時間目だけお腹が痛くなるときがたまにある くらいだった腹痛がどんどん早い時間から感じるようになり、しまいには学校に近づくだけで腹痛・寒気・心臓のバクバクを感じるようになってきました。ただ、それでも頑張れば行ける程度だったので我慢して学校に行っていました。
そんな中、習慣としてやっていた朝の職員室前での勉強の時です。いつもどおり勉強をしていると2つ年上の美術部の先輩が「お!おもちまるじゃん~ お疲れ様~」といいながら私の肩をぽんっと叩いて通り過ぎていきました。
当時おしまいメンタルだった私は、その一言で号泣。涙が止まらなかったので職員室から一番近い中学一年生のトイレに駆け込みました。
中1のトイレで嗚咽をもらしながら泣く高1。地獄絵図すぎる…
この学校に入ることを夢見ていた小6のわたしに見せてあげたいくらいです。
しかも中1の時も中1のトイレで号泣したことがあるので、二回目だったっていう…ww
そんなことは置いておいて、うえーーんひっぐひっぐと泣きに泣いて疲れた私は一度自分の荷物を取りに戻ってから保健室に行きました。
優しい保健室の先生に話を聞いてもらいながら「ひっぐ。。学校。。やめたいれすっ。。ぐすっ。。」
とずっと言い続けてました。
担任が来ても学校辞めたいです。通信行きます。と言いました。
保険の先生も担任の先生も私が本気で言っているとは思っていないような反応で、担任にいたっては
「え~?何言ってるの ちょっと落ち着いて~?」って感じでした。
まあいじめられているわけでもなければ、成績でそんなに困ってもいなかったので冗談だと思ったんでしょう。
私は当時の担任の先生が嫌いだったのですが、それがストレスだったのか先生と話している時にまぶたがぴくぴく痙攣したのを覚えています。
また、私の決意を笑われたことに関しては、その時「絶対にここを辞めてやる」と思いました。
学校で泣いたことはその日、お母さんに言いませんでした。
たしかその次の日から、私は学校に行けなくなりました。
学校に行けなくなった日の朝ごはんは、納豆でした。納豆を混ぜながらお母さんに昨日先輩に話しかけられて泣いちゃってさ~と言おうとしたところ先輩のあったかさを思い出してぼろぼろと泣いてしまいました。その日から学校を休みがちになりました。
学校を休んでいる時は、2時間くらいメイクしたり、図書館に本を読みに行ったり、お昼ご飯を一時間くらいかけて作ったりしていました。あと、たまにお友達から聞かれて数学やったりしていました。
この不登校期間の間に、お腹痛いのはスカートがきついからじゃないか疑惑が出てスカートを新調したり、心療内科に行ったりしました。たしか初めて病院に相談に行ったのは11月の下旬だったかなと思います。
心療内科では、過敏性腸症候群・適応障害・不安障害の診断を受けてこの時期は色んな種類の薬を飲んでいました。
また、ある人のブログで「高認」というものの存在を知り、通信じゃなくてこっちでもいいのでは?と考えたりもしました。
1月からは週3で美術予備校に通い始めました。
勉強の学校のほうには、美術の授業だけ受けに行きました。この時期は電車に乗っている時にも症状が出るほどまでになっていたので(というか駅のほうに向かっていくだけで腹痛に襲われていたので)、登校だけでも精一杯だったのですが、登校途中の道に推しが番組で歩いた横断歩道があったので毎回かろうじて学校に到着していました。(ほぼ毎回登校中は目的の駅に着くまでに途中下車していましたが)
そんなこんなで、診断を受けた11月~12月ごろから私は美術の時間にしか学校に姿を現さなくなりました。また、学校を退学する日については友達に前日突然LINEで伝え、次の日に辞めるというスピード退学をしていきました。
高校を辞める前に、自分の中で 高認取得⇒美術予備校中間部⇒藝大 に進みたいと思っており、両親とも話がついていたので何も迷いはありませんでした。
このあと、学校を辞めても適応障害の症状が残っていたので厄介でしたが、無事わたしは精神を病んで死んでしまう前に学校を辞め、自分の本当に進みたい方向へ一歩進むことができたのでした。
(~完~)